山口移鎮いちんと明治維新の経緯

天保8年 1837 毛利敬親が長州藩第13代藩主となる
嘉永6年 1853 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航
嘉永7年 1854 日米和親条約締結
安政4年 1857 吉田松陰が萩で松下村塾を主宰する
安政5年 1858 日米修好通商条約締結 
安政6年 1859 安政の大獄で吉田松陰が処刑される
文久2年 1862 長州藩 藩是(藩の方針)を公武周旋から破約攘夷に転換する
文久3年 1863
  • 毛利敬親 山口移鎮を行う
  • 長州藩が下関で外国船を砲撃、報復攻撃を受ける
  • 八月十八日の政変が起こり、長州藩が京都から排除される
元治元年 1864
  • 伊藤博文・井上馨、イギリスから帰国し十朋亭に入る
  • 長州藩 京都に進発、禁門(蛤御門)の変が起こる
  • 長州追討の勅命が幕府に下る
  • 下関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)が起こる
  • 禁門の変の責任を取り三家老自刃、完成したばかりの山口御屋形(山口城)を破却
慶応元年 1865 内訌戦の結果、高杉晋作率いる改革派が勝利、藩是を武備恭順で統一
慶応2年 1866
  • 薩長同盟が結ばれる
  • 山口御屋形(山口城)の修復が終わり、毛利敬親が入城
  • 幕長(四境)戦争開始、長州藩が実質的に勝利する
慶応3年 1867 幕府 大政奉還を行う。朝廷、王政復古を宣言する
明治元年 1868 戊辰戦争開始 江戸城開城 明治に改元

ゆかりの人物

毛利 敬親(もうり たかちか)

画像:肖像画

幕末の長州藩主。村田清風などの有能な家臣団を登用して、藩政改革を推進した。
文久3年(1863)4月に、藩の主要機能である藩庁を、萩城より山陽路の山口へ移転させ、これにより幕府との戦いにも備えたといわれる。しばしば「そうせい候」(家臣の意見に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため)と呼ばれるが、家柄・身分にかかわらず有能な人材を登用し、彼らに政治の実務を任せることによって、下関戦争、禁門の変、四境戦争などの幕末の難局を乗り切った。
明治2年(1869)家督を元徳にゆずり、2年後廃藩置県の年に亡くなる。享年53才。

大村 益次郎(おおむら ますじろう)

画像:肖像画

近代的兵制の創設者。蘭学・医学に精通していたが、動乱の幕末に彼が最も力を発揮したのが兵学だった。1860年山口の普門寺で兵学を教授し、ついで明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。1866年の第二次長州征伐の際、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破する。その後1868年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛し、維新政府の軍政事務を担当。上野彰義隊討伐、奥羽・北越の平定作戦に携わった。 その功績が認められ、1869年には兵部大輔に就任するが、この年の9月、新制度に対する士族の不満が高まり、京都で刺客に襲われ重傷を負い、11月に没した。山口市鋳銭司にある鋳銭司郷土館には大村益次郎の遺品・遺墨が展示されており、東京の靖国神社参道には銅像(日本におけるヨーロッパ式銅像第一号)が建立されている。

周布政之助(すふまさのすけ)

画像:肖像画

長州藩政の責任者で革新派のリーダー。
嘉永六年(1853)、右筆役(政務役)となり藩政の中枢に入り、財政、兵制、教育制度の改革に取り組んでゆく。吉田松陰や久坂玄瑞らを庇護(ひご)し、外交方針には攘夷(じょうい)の後に国力を増強し開国に望むという考えを持ち、長州ファイブをイギリスに送る。しかし元治元年(1864)に起こった禁門の変・下関戦争の敗北などにより藩政混乱の責任を取って自刃する。享年42歳。藩役人の宿所となった十朋亭に最初に入居したと伝えられる。

久坂玄瑞(くさかげんずい)

画像:肖像画

松下村塾四天王の一人。
高杉晋作と共に松下村塾の双璧、さらに入江(いりえ)九一(くいち)・吉田(よしだ)稔(とし)麿(まろ)を合わせて四天王の一人とうたわれた。松陰の妹、文と結婚。江戸・京都で尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)活動に邁進し、各地の攘夷志士と繋がりを持つ。英国公使館の焼討ちや光明寺(こうみょうじ)党を結成して外国船砲撃の先頭に立つなど行動を起こしてゆくが、八月十八日の政変で長州が京都を追われた後、復権運動には慎重策を主張するも激派に押し切られ、元治元年(1864)禁門の変において負傷し、御所堺町御門横の鷹司(たかつかさ)邸で自刃。享年25歳。萬代家に出入りした当時の愛用の湯呑みが残る。

木戸孝允(きどたかよし)

画像:肖像画

西郷隆盛、大久保利通と並ぶ維新三傑(さんけつ)の一人。
慶応元年までは桂小五郎という。江戸藩邸内の学校である有備館(ゆうびかん)の舎長の職務をこなす傍ら各地の志士と交流する。禁門の変以後身を追われるが、藩政権が革新派に移り藩の実務責任者のトップとなり、薩長同盟を成立させ倒幕まで藩を率いる。明治新政府発足後は五箇条の御誓文(ごせいもん)、版籍(はんせき)奉還(ほうかん)、廃藩置県と、重要政策を主導する。卓越した先見性を持ち憲法制定や議会制を主張するが、政治的対立と自身の不調により進捗せず、明治10年(1877)45歳で死去。「木戸日記」には万代利兵衛の名が見え、萬代家には木戸からの書状が残る。

伊藤博文(いとうひろぶみ)

画像:肖像画

長州ファイブの一人、初代総理大臣。
熊毛郡束荷村(光市)の農家に生まれる。松下村塾で学び、長州ファイブの一人としてイギリスに密留学、列強の下関砲撃計画を知り帰国、停戦交渉や通訳を務める。帰国の際に、井上馨とともに十朋亭に宿泊した。倒幕に至る活動を経て明治新政府で地位を上げてゆき、岩倉使節団に特命全権副使として加わり欧米を視察。木戸や大久保に重用され、彼らの死後は政府の中心となり内閣制度を導入し、初代総理大臣となる。憲法制定、帝国議会開設と近代国家の礎を築き、国政に大きな力を及ぼし続けたが、明治42年(1909)満州ハルビンで暗殺される。享年69歳。明治初年頃には戸籍を萬代家寄留としており、萬代家には伊藤から送られた品や伊藤の父からの手紙などが多数残されている。

井上馨(いのうえかおる)

画像:肖像画

長州ファイブの一人、幕末長州から新政府まで活躍。
湯田に生まれ、萩に出て明倫館で学ぶ。長州ファイブの一人としてイギリスに密留学するが、列強の下関砲撃計画を聞き伊藤と共に帰国(この時、十朋亭に逗留)、停戦交渉を行う。幕府への抵抗論を主張し、袖解橋で保守派に襲われ瀕死の重傷を負う。維新後、明治政府で大蔵大輔、外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任。財界との繋がりも深く、殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)に貢献した。不平等条約改正のため鹿鳴館(ろくめいかん)外交を行ったことで知られる。81歳で死去。明治29年に萬代家では井上のために、イギリスから帰国33年記念の宴を開いている。

山県有朋(やまがたありとも)

画像:肖像画

奇兵隊を率い、軍事に精通し総理大臣に二度就任。
萩に生まれ、初め名を小輔、狂介と名乗る。松下村塾に学び、奇兵隊軍監となる。戊辰(ぼしん)戦争時には参謀として、越後や奥羽で戦う。明治二年ヨーロッパに渡り、各国の軍制を学ぶ。西郷隆盛と共に天皇直属の御親兵を組織し、大村益次郎の後を継いで徴兵制度を実現、以降軍事制度の基礎を築いた。第三代及び第九代の総理大臣。軍人勅諭・教育勅語を発布。1890年に陸軍大将、1898年に元帥。その他内務大臣、農商務大臣なども務める。晩年まで長く元老として力を保った。85歳で死去。藩士の宿所となった十朋亭に出入りし、萬代家伝来の史料には、書簡等が残る。

高杉晋作(たかすぎしんさく)

画像:肖像画

松下村塾の四天王の一人、奇兵隊を創設。
萩に生まれる。明倫館で学ぶ傍ら、松下村塾でも学ぶ。文久元年(1861)藩主世子の小姓となり、翌年上海を視察、欧米により半植民地化された中国を目にする。文久二年に英国公使館焼討ちを実行。翌年外国船砲撃事件の後、奇兵隊を創設。翌年下関戦争(四国連合艦隊砲撃事件)の敗戦後、藩の使節となり講和を結ぶ。まもなく藩政が保守派の手に渡って九州に身を隠すが、その途中十朋亭に立ち寄っている。下関で挙兵し藩の内戦に勝利して政権を奪還。幕長戦争(四境戦争)で海軍を指揮して勝利するが、結核を患い、明治を迎える前年に29歳で死去。東行と号する。

杉民治(すぎみんじ)

画像:肖像画

吉田松陰の兄。藩及び県の役人として民に尽す。
元の名を梅太郎という。萩に生まれ、叔父の玉木文之進に学び、さらに明倫館で文武の業を修め、藩の役人となる。吉田松陰が捕らわれたときには、日々差し入れするなど献身的に弟を助けた。藩政の時代から県政の時代にうつり、明治九年に退職するまで、各地で民のために力を尽し、明治2年には藩主より民治の名を与えられている。明治9年に起こった萩の乱で、息子と娘婿、叔父を亡くし、辞職。その後は萩で松下村塾を再興。また萩の修善女学校の校長も勤め、教育者としても尽力した。83歳で死去。明治初年頃、十朋亭に居住し、隣接する建物で私塾を開いたとされる。(杉私塾)

周辺史跡等紹介

十朋亭維新館を起点に回れる、周辺の史跡等を紹介します。

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